概要
東京工業大学大学院総合理工学研究科/地球生命研究所の木賀大介准教授らは、理化学研究所と行った、合成生物学の共同研究で、遺伝子によるタンパク質の生産速度を理論予測に基づいて操作し、天然の状態より極めて速い生産速度で、細胞が初期化する原理を明らかにしました。
研究の背景
―細胞の初期化と遺伝子大量発現とは―
受精卵細胞や幹細胞は分裂を繰り返しながら、働きをもった細胞へと変化する― これを細胞の分化と呼びます。10年ほど前まで、例外を除き一度分化した動物細胞は、分化前の状態に戻ることは出来ないと考えられていました。
しかし、ノーベル生理学賞を受賞した京都大学iPS細胞研究所長の山中伸弥教授が行うiPS細胞の研究では、既に分化した体細胞に4つの遺伝子を導入することで、様々な細胞に分化でき無限に増殖する能力を持つ細胞(多能性幹細胞)を作り出しました。この既に分化した体細胞から多能性幹細胞へ変化することを、細胞の初期化、または細胞リプログラミングと呼びます。
また、遺伝子に書かれた遺伝情報に基づいてタンパク質を生産することを遺伝子発現と呼び、天然の状態より極めて速い速度でタンパク質を生産することを遺伝子大量発現と呼びます。大量発現は、iPS細胞の研究のように、細胞の性質を転換させる実験では、再現性を高くする重要な操作として重用されています。しかし一方で、大量発現によって細胞に何が起きているのかは明らかではありませんでした。
―最近の合成生物学について―
合成生物学は、伝統的な生物学が「観る」ことを行っていたのに対し、「つくる」ことを研究手段とする生物学の新たな領域として、15年ほど前に始まりました。古来からの生物学では、さらに、50年ほど前から始まった分子生物学でも、ナマの生き物を用いた実験が研究のベースとなっており、理論的な研究はあまり行われていませんでした。その理由は生物の複雑さに起因していて、理論的な数理モデルに基づいた研究をしづらいという点にありました。
しかし、合成生物学では、生物を単純化した数理モデル(理論)と実際の生物の挙動(実験)を比較することで、生物システムの根本的な理解を目指す研究が行われるようになりました。
数理モデルをもとに遺伝子を組み合わせた2000年の研究「トグルスイッチ回路」では、2種類の遺伝子が、お互いの遺伝子発現を抑制しあい、タンパク質が生産される/されない状態がスイッチのオンオフのように切り替わります。人工的に作製された遺伝子回路(ネットワーク)を細胞に組み込み、指定した遺伝子を発現させる/させないの作業を行うことで、細胞内で何が起きるかを意図的に観察することができます。この研究を発展させた2011年に発表された木賀准教授らによる研究では、トグルスイッチ回路に細胞間通信を組み合わせ、「細胞状態の地形」と呼ばれる生命の発生の実態を明らかにしました。
研究成果
今回の研究で木賀准教授らは、2種類の遺伝子が相互に発現を抑制する「トグルスイッチ回路」と、これとは別に、研究者が指定する任意の速度でタンパク質の生産を行う「大量発現回路」とを組み合わせた、新たな回路を作成しました。
そして発現速度を上昇させる調整とその解除を連続して行う実験操作によって、ある状態Aの細胞の集団から、2つの状態AとBを、理論的な予測通りに作りだすことに成功しました。
まず、細胞の内部状態についてグラフを用いて考えます。グラフの縦軸を安定性とし横軸を細胞の内部状態とします。
基本のシステムを、安定な状態が2つ(AとB)あるものとします。その片方(A)のまわりに細胞の集団を置き、細胞の内部状態をaとします(グラフ1)。
次に、遺伝子の発現速度を速め、大量発現を引き起こす調整を行います。すると、タンパク質が大量生産され、システム自体が、安定状態が1つだけ(A')のものに変化します。細胞の集団は安定な方(A')へと向かうため、細胞の内部状態もaからa'へと変化します(グラフ2)。
ここで、遺伝子の発現速度を速める調整をストップします。すると大量発現が解除され、システムは、元の安定状態が2つのものへと戻ります。細胞の集団は、不安定な状態(A'')にいることになってしまい、安定な状態(AまたはB)へと移動しようとします(グラフ3)。そのとき、集団の一部は元々いた内部状態aに戻りますが、一方はもう片方の内部状態bへと移動します(グラフ4)。
このように、大量発現のオンオフの調整によって、細胞の集団の安定状態(エネルギーが低い状態が2つのものと1つのもの)を切り替えることができました。この現象は、数理モデルで予測されていたもので、本研究で木賀准教授らは、実験で理論通りに細胞の状態をコントロールすることが出来たと言えます。また、逆の過程である、状態Bの細胞集団から2つの状態AとBに分けることも示せました。
ここで、分化前の細胞を安定状態が1つ(A')の細胞集団、分化後を安定状態が2つ(AおよびB)とおきかえると、前述の結果は、細胞が分化(A)した後、分化前の状態(A')に戻り、さらにその後AとBの2つの状態の細胞集団が生じることに相当し、細胞の初期化(リプログラミング)が行われていると言えます。
木賀准教授らは、さらなる数理的な解析を行い、今回行った、理論的数理モデルに基づき発現速度を調整し細胞の状態を切り替える、細胞の初期化を再現した実験が、天然の遺伝子ネットワーク一般にも適用できることを明らかにしました。
今後の展開
いままで原理が明らかになっていなかった細胞の初期化の過程を、今回実験的に検証したことで、より効率の良い幹細胞の作成手順の確立につながると考えられます。また、微生物を用いた有用物質の生産が、高度化されることが期待されます。
用語説明
(1)遺伝子大量発現:生物学では、遺伝子からのタンパク質の生産を、「発現」と呼ぶ。天然の状態よりも極めて速い生産速度でタンパク質を生産することは、特に、遺伝子の大量発現と呼ばれる。
(2)遺伝子相互抑制回路「トグルスイッチ」:遺伝子による相互抑制回路は、分子の各種性質を総合することで、個々の遺伝子産物の存在量によって示される内部状態として、2つの安定状態を持つ場合と、一つしか安定状態がない場合とに分かれることが、理論と実験によって示されている。
論文情報
Authors: A Kana Ishimatsu, Takashi Hata, Atsushi Mochizuki, Ryoji Sekine, Masayuki Yamamura, and Daisuke Kiga
Title of original paper: General applicability of synthetic gene-overexpression for cell-type ratio control via reprogramming.
Journal, volume, pages and year: ACS Synthetic Biology[2014, 3(9):638-644].
Digital Object Identifier (DOI): 10.1021/sb400102w
Affiliations:Department of Computational Intelligent and Systems Science, Tokyo Institute of Technology, Earth-Life Science Institute, Tokyo Institute of Department website: http://old.elsi.jp/en/