ELSI

ニュース・広報

コラム

ELSI新棟から地球と生命の起源を目指す

0209top.jpg

20160209a.jpgJohn Hernlund教授が、妻のChristine Houser助教と1歳の娘とともにアメリカから東京工業大学地球生命研究所(Earth-Life Science Institute:ELSI)にやって来たのは、2013年の夏のことだ。2人がカリフォルニア大学から遠く離れた日本へ来たのは、「生命の起源」という深遠な謎を解明するために設立された新しい研究所に魅力を感じたからだ。ELSIは、2012年12月に、日本政府の世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)から10年間の補助金を支援される9つの学際的な研究拠点の1つとして設立され、高圧地球科学者の廣瀬敬教授が所長を務める。
 設立から3年後の2015年春、大学の南門を見下ろす明るく広々としたELSI新棟が完成した。「巨大な船のようでしょう」とHouser助教は言う。ELSIの目標にぴったりの比喩だ。「科学研究機関では、それぞれの研究者が自分の小さな舟を自分の行きたい方向に進めていくことが一般的です。しかし、ELSIは研究員たちへ、自分の小さな舟を壊して、より大きく、より良い船を一緒に建造しようと呼びかけています。私たちはその船に乗って、誰もその存在を知らず、想像もしたことのないようなゴールを目指すのです」。
 多くのELSIメンバーが、今の時代に純粋科学を思い切り研究できる研究所が誕生したことを喜ばしく思っている。新棟には、ELSIへの投資と期待と思いが反映されているのだ。

0209b.jpg
 新棟のオフィスの天井は高く、たっぷりの光が注ぎ込む。廊下には、真っ赤なカーペットが路地のようにジグザグにのびている。これは意図的に設計したもので、メンバー同士が出くわしたついでに、研究や近況について話せるよう目論んでいる。廊下からは「アゴラ(AGORA)」と名付けられた大きな中央ホールを見下ろすことができる。アゴラとは、古代ギリシャの集会場のことだ。ここでは、黒板の前に皆が集まって議論をしたり、コーヒータイムを利用して顔を見合わせて話したりできる。従来の研究所では、研究者は各研究室にこもり研究に専念することが多かったが、ELSIでは開放的で居心地の良い共有スペースを用意することで、研究者同士の活発な議論を促している。そこから新たな異分野融合研究が産まれることを期待しているからだ。
 設立当初は数人しかいなかったELSIには、現在約70人の研究者が在籍している。その半数近くが外国人だ。ELSIは、NASA、ハーバード大学、プリンストン高等研究所、宇宙航空研究開発機構(JAXA)など、内外の研究機関と共同研究を行っている。2015年には、日本での地球生命と地球外生命の研究を促進するため、自然科学研究機構(NINS)と共同で日本アストロバイオロジー・コンソーシアムを設立した。さらに7月には、生命の起源に関わる世界中の研究者同士をつなぐネットワークの強化と拡大を目的とするEON(ELSI Origins Network)プロジェクトを、560万ドル(約6億7000万円)の大型助成金を米国の財団から受けてスタートさせた。
 「外国人研究者に、ELSIが日本の典型的な研究機関とは違うと思わせることができたことは、ELSIの大きな成果の1つです」と、Hernlund教授は話す。ELSI内で使用される言語は英語で、序列のない環境は研究者に完全な自由と自律を与えている。さらに、外国人の日本へのスムーズな移住を、事務スタッフは献身的にサポートしている。
 Hernlund教授とHouser助教も、ELSIのスタッフに大いに助けられた。夫妻の在籍証明証やビザの手配、さらには住居や託児所探しも、スタッフが手助けした。Houser助教は日本の医療費の安さや公立保育所の質の高さを挙げ、「日本は子育てがしやすい国です。アメリカよりも優れていると思います」と話す。
 ELSIでは外国人研究者に対して、専門スタッフによる週2回の日本語のレッスンを実施している。「日本の暮らしに不安はありません」とHouser助教は言う。「昼でも夜でも、どこへでも歩いていけます。私は都会を探検するのが好きなのですが、東京の街は見飽きることがありません」。

0209d.jpg

0209e.jpg
 ELSIでは、従来の大学のシステムとは一線を画す大がかりな組織改革を行っている。目標は、透明性を高め、調和をもたらすことだ。廣瀬所長が最初に行ったのは、研究者から事務スタッフまで研究所の全員と面接し、その役割を再定義することだった。この組織改革で、スタッフそれぞれの業務が明確になり、効率の良い人員配置が出来るようになった。スタッフのスキルを伸ばす研修を行ったり、専門的な能力を持つスタッフを新たに雇用したりするなど、個々の持つ能力を最大限に活かしELSIに還元する仕組みを作った。
 世界から第一線の研究者が集まる「目に見える研究拠点」の形成を目指すELSIは、現在多数のワークショップを開催しており、中でも毎年1回開催されるシンポジウムは大きな注目を集めている。また、研究者の募集にも力を入れており、廣瀬所長が「外国人研究者は、より多くの外国人研究者を引きつけます」と言うとおり、リクルート委員会のトップは外国人研究者だ。前回の国際公募では応募者の90%以上が外国人で、内定を辞退する者はほとんどいなかった。日本政府からのWPI補助金の支援は10年の期限があるため、廣瀬所長は先を見越して資金調達用委員会を設立した他、米国に事務局を設置して新たな資金源を獲得しようと計画している。
 副所長の井田茂教授は、ELSIが設立されて間もなく、東京工業大学地球惑星科学科から異動してきた。井田副所長は、ELSIの職場環境が劇的に変化していく様をその目で見てきた。外国人がマネージメントや事務スタッフとして日本人スタッフと共に働くようになったことは変化の大きな要因の1つだ。井田副所長は、「顕著な違いとして、日本的なビジネス会議では、常に相手の意見を察しようと気を配ります。けれども西欧では直接的な物言いをすること多いため、議論が飛躍的に発展します」と話す。
 「大学内にELSIのような国際的な研究所が形成されると、その影響は大学全体に波及するはずです」と井田副所長が言うように、東京工業大学の三島良直学長も同じ意見を持っている。「研究者も事務職員も、学際的かつ国際的な研究室を運営する方法をELSIから学んでいるところです。今まで誰もこのような経験をしたことはなかったのですから」。

0209h.jpg

0209f.jpg
 地球上の生命の起源は、地球の歴史と切っても切れない関係にある。地質学的な時間スケールで見れば、地球上の生命は地球が形成されてすぐに誕生したといってよい。それにもかかわらず、生命科学者と惑星科学者が一つ屋根の下で研究していることはほとんどない。自己組織化する生命体の最初の兆候を探して、生物学者、生化学者、地質化学者と20年以上にわたって共同研究を行ってきた理論物理学者のEric Smith教授は、「ELSIは、生命科学者と惑星科学者が長期にわたって安定したコミュニティーを形成し、一緒に研究できるようにするために設立された、世界でただ一つの研究所です」と言う。
 「一人きりではどんな科学者も行き詰まってしまいます」とSmith教授。「自分を驚かせてくれる仲間が必要なのです。ELSIは研究者に、そうした驚きを提供しようとしています」。
 研究所内の研究者同士の交流を促すため、ELSIは研究所内のイベントも開催している。1日1回のコーヒーブレイク、週2回のランチトーク、月1回のELSIアセンブリー、不定期のELSIセミナーと円卓討議などだ。
 「ELSI Youchien(幼稚園)」というセッションも開催されている。これは異分野間の壁を取り除くことが目的であり、研究者が、全ての職員を対象に自身の専門分野の基礎概念を解説している。「ELSIの仕事は、まだ存在していない良いアイデアを発見できるコミュニティーを作ることです。ELSIの成功は、この点にかかっています」とSmith教授。
 Houser助教は、地球の深部まで届く地震波を利用して地球の内部構造の三次元地図を作成しているが(彼女はこの手法を「脳のMRI検査のようなもの」と説明する)、自分の問いかけが変化してきたのを感じるという。彼女は、ELSIに参加して間もなく、地球深部の岩石は数十億年前に地球が形成された頃の古い物質の名残である可能性があって、原始地球の環境についての手掛かりになるかもしれないことに気付いたのだ。「地球深部の岩石は、私たちを過去の時代に連れていってくれるのです」。
 地球が時間とともに水を蓄えてきているのか失っているのかは、まだ分からない。これは、ELSIの科学者たちが答えを出そうとしている根本的な問題の1つだ。水は、深さ400~700kmの上部マントルと下部マントルの間に捕らえられているのだろうか? Houser助教が最近行った地震波解析の結果からは、この地球マントル遷移層には水がないことが示唆された。一方で、水があるはずだという結果が、ELSI愛媛大学サテライトの研究者から出ている。「同じ目標に向かって努力することで、全く違うアイデアや結果がでることもあります。しかしそこから共通の理解を目指して協力するモチベーションが生まれるのです」とHouser助教。

0209g.jpg
 異分野の研究者同士が、相互に関心を持ち、共同研究ができるような領域を確立するのはなかなか難しい。ELSIの生物学者で、唯一のウイルス学者である望月智弘研究員は、世界各地の数百カ所の温泉を訪れて、沸点に近い温度でも生存可能なRNAウイルスを探す研究を行っている。「多くの人が、生命は高温のRNAワールドから始まったと考えていますが、今までそうした環境でRNAウイルスが見つかったことはありません」。
 望月研究員は、古細菌(アーキア)界の単細胞微生物に感染する各種のウイルスについても研究している。古細菌に感染するウイルスは数十種しか発見されていないが、細菌に感染するウイルスに比べて、その形態学的多様性や遺伝子の多様性は非常に高い。望月研究員は以前、日本の南端の90~95℃の温泉に棲息しているコイル型の古細菌ウイルスを発見した。これまで、こうした温度の場所で発見された他の細胞やウイルスは全て二本鎖DNAを持つものだったが、望月研究員が発見した古細菌ウイルスが持っていたのは、一本鎖DNAだった。
 他に同じ分野の研究者がいなかったため、望月研究員はELSIへの移籍の際はガラス製品からインキュベーターまで、研究室の備品を揃えるところから始めた。自分の実験設備を作り上げた達成感は大きい。「今後は、他のグループがどんな研究をしているのかゆっくり学んでいき、全く異なる背景を持つ研究者と、実りある共同研究ができるようになりたいと思っています」。
 Hernlund教授は語る。「研究者同士が文化的にも科学的にも密接につながれるような環境を作ることが私たちの目標です。ELSI新棟は、この目標を実現するのに最適な場所だと思います」。