Researcher's Eye 〜地球最大の謎に挑む研究者たち
太古に迫り、
未来を変える、
生命と情報の
融合
地球生命研究所(ELSI)副所長
あらゆる微生物の解読をめざす「メタゲノム解析」
天文に心を奪われた青春時代を過ごし、修士課程までは地質学を専攻。そして現在は生命情報学のフロンティアを歩む。黒川を突き動かすものはいつも未知の領域への好奇心だ。
「修士までは、東北大学で火山の噴火をテーマにフィールドワークとコンピュータシミュレーションに取り組んでいたのですが、ひと通り自分の研究にめどがついたところで、当時作成したシミュレーションのアルゴリズムをどうしても別の何かで試したくなったんです。私は今でも生物が苦手なんですが、微生物の分析に使えば環境科学に応用することができるだろうと思ったら、いても立ってもいられなくて(笑)」
衝動を抑えきれなくなった黒川は、博士課程から大阪大学薬学部に移り、微生物の一種バクテリアの研究を始めた。今思えば、ここがある意味スタート地点だったのかもしれない。バクテリアの研究そのものは1800年代から進められていたが、近年まで身近にいる微生物の生態系さえも解明する術はなかった。ならば、それらを検出できる技術を開発するしかない。生物学と情報科学、2つの領域からバクテリアを通して生命の謎を追求する日々が始まった。
「ちょうどその頃、ヘモフィルス・インフルエンザ菌の全ゲノム解析が初めて論文で発表され、非常に感銘を受けました。それまでは分子生物学的な研究を続けていたのですが、『これからはゲノムしかない』と、その時ひらめいたんですね。もちろん、膨大な情報量を処理するにはコンピュータのテクニックがいる。運よくそれを備えていた私は、ゲノムの世界にアプローチできたわけです」。
時を経て1995年、大阪・堺での大腸菌O-157大量感染をきっかけに、この大腸菌のゲノムプロジェクトが始まった。黒川は研究者の一員として、国内にはまだ無かったバイオインフォマティクスの基盤構築に携わる。「DNAを読み取るために必要なシーケンサという装置が2004年を境に大幅な進歩を遂げ、より膨大なゲノムの収集が可能になりました。この装置のおかげで、従来のように培養された1種類ではなく、一気にいくつものバクテリア遺伝子を研究できるようになったんです。」
バクテリアは1匹・1種類だけでは生きられない。どんな環境にあろうと必ず何十、何百という種類で集団を形成している。そうした群衆を片っ端から解析しようというのが、黒川が研究を進める『メタゲノム解析』の考え方だ。例えば、人間の腸の中には100とも300とも言われる種類のバクテリアがひしめき合っているのだが、そのバクテリアの遺伝子の種類、量、働きにいたるまで、すべて把握できる段階にまで来ている。最終的には地球規模での解読を進め、全微生物のデジタルデータを完成させることが、黒川のめざす一つのゴールだ。
遺伝子情報が社会にもたらす恩恵とは
黒川の一連の研究は、ELSIの中においてどのような役割を担うのだろうか。答えは明確だった。
「生命の起源に迫るのであれば、まずは今の地球上にどれだけの生物がいるのかを明らかにしなければなりません。歴史を振り返るのはその後...というのが私のスタンスです。ヒトの体内、自然の中、ありとあらゆる環境の微生物を徹底的に解析して、すべてをデジタル化する。そこから多分野への貢献が始まるのです。」
テーマは壮大。だからこそ手にした成果からいくつもの応用が生まれる。面白い具体例を教えてくれた。「梅雨時に部屋が臭うのはカビが舞うから。病院内でウイルスが蔓延すれば院内感染も起こります。これらの問題は建築技術だけでは対応できないけれど、微生物の遺伝子情報があれば根本的な解決策が見える。こうした『ホーム・マイクロバイオーム・プロジェクト』のような取り組みが、欧米ではどんどん進んでいる。私も住宅メーカーや製薬会社と協力して、何かできないかを模索しているところです。」
微生物由来の遺伝子情報を、社会のあらゆる場面で活用する。そうした「遺伝子情報立脚型社会」が、次代の国家基盤のひとつになると黒川は考えている。
「もうひとつ取り組んでいるのが、必要な遺伝子情報を瞬時に取得できる統合データベースの開発です。仮に温泉のバクテリアを調べたい時には、『温泉 バクテリア』という検索ワードを入力すれば該当する種類を探せるようなものですね。そのために微生物と関連する言葉を一つひとつ結びつける、マッピング作業を進めています。」
今後は完成したデータベースに人工知能的な技術を加え、微生物を検索するだけで論文が書けるシステムを実現したいという黒川。有益な情報をすべての人へ。多領域の専門家が集うELSIにとっても、このビッグデータの誕生は大いに価値があるはずだ。
「生物学は未解明な部分が多く、ロジックが成り立たない世界。今ある知識がすべてなんです。データをまとめる、関連付けをして整理する。こうした地道な積み重ねが何より重要だと私は思います。」
最初の微生物を明らかにしたい
「私たちの世界ではいま、『シングルセル』が最先端と言われています。ヒトを探る場合であれば、メタゲノムの理論で群衆全体の遺伝子やDNAをまとめて読み取ることは可能です。しかし、見つかったひとつの遺伝子が男性由来なのか女性由来なのかまでは断定できない。そのために単体と集合体の分析をどちらもやりましょうという動きが始まっています。」
この対象をヒトから微生物に置き換えた場合、必要な技術のハードルはさらに高くなる。だが先行する欧米では、シングルセルを見出す革新的な技術が続々と誕生している。まずはそのラインに早くたどり着くことが必要だ。
「個々や種ごとのゲノムが解析されれば、幅広いビジネスにも活かされる。化粧品ひとつをとっても、自分の肌質に遺伝子レベルにまで合ったものを選べる時代が来るでしょう。すでに、海外のメーカーは商品の開発に着手しています。」
日本はもっと先端的な研究に力を入れるべきである。そうした持論を展開する黒川は、世界の第一線の研究者たちが集うELSIに対して高い期待を寄せている。日夜を問わず、統合データベースの構築に没頭するのも、バイオインフォマティクスが生命の起源の解明に欠かせない架け橋になると確信しているからだ。
そしてもうひとつ、黒川に与えられた使命がある。過去に遡ることだ。
「進化の流れを逆に辿って、最初に誕生した微生物を明らかにしたいですね。謎に包まれたオリジン・オブ・バクテリアの姿がわかれば、きっとその先の起源も必ず見えてくるでしょう。」
小さな小さな生物から迫る、数十億年もの神秘。黒川の情熱は間違いなく、未来と遠い過去への一歩をそれぞれ刻んでいる。