ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」―おかしな理解できないファンタジーの世界で有名だが、この物語のナンセンスについて考え始めると止まらなくなる。私が常に感じることが1つある。キャロルの話に出てくる少女が遭遇する出会いや出来事は理解できない。このことは「私たちがお互い最初に会った時、どうやって理解するのか」という問いを私に投げかける。私たちがお互いを理解できるようにするためにやっていることは何だろう?この意味で、東京のELSIへの私の訪問は、ウサギの穴の下への旅行のようなものだった。それは最も素晴らしい経験だった。全く異なる背景を持つ人々が互いに理解し合いあう試みを、私自身も行い、その素晴らしさがわかった。
アムステルダム大学で哲学と理論物理学を専攻する大学院生として、私はELSIを訪問し1月に開催された第3回国際ELSIシンポジウムに参加できたことを大変光栄に思っている。研究機関としてのELSIは、地球、他の惑星、これらの生命の起源と発達について考えるユニークな環境だ。私が訪れたときに目にすることができた話題は、自分では把握できないほど盛沢山な内容だった。火星探査に関する新しいアップデート、初期の地球の地球力学の理論、プロト-RNA構造への新規アプローチ、オープンエンドな進化を伴う生命のようなシステムの創造のモデリング...。ここで過ごした日々は自分がキャンディー・ストアの子供のように感じた。私はこれらの驚くべき研究の枝を味わい、その最前線を追いかけ、関連する起源の謎の魔法に吸い込まれていく。ELSIネットワークは、最も学際的な問題に取り組む科学者から構成されている。その多くは、20桁もの違いのスケールを行き来することをものともしない。私は不思議の国のアリスのように感じた。 ELSIの著名な研究者の指導に基づき、この科学的な風景をさまようことは、壮大な経験となった。しかし、私の心の奥にある差し迫った疑問が頭をもたげた。そのような学際的な環境の科学者たちは、さまざまな背景を持ってどうお互いを理解することができるのか?
シンポジウム終了後の翌日ELSIでの学際的なディスカッション
この問いを違う方法で言い換えるならば、流行の概念でいうところのパラダイムである。ハーバード大学で物理学者から歴史学者に転向したトーマス・クーンは、彼の『科学革命の構造』(1962年)という著書で、科学の発展という意味でパラダイムという言葉を導入した。これらのパラダイムは、科学者の世界観を形成し、研究のすべてのステップを導く理論、方法、前提、道具および形而上学的原理の集合として理解することができる。科学の歴史には、パラダイムの多くの例がある ― ニュートン力学、相対性理論、ダーウィンの進化論、粒子物理学の標準モデル、ビッグバン ― そして科学はこれらのパラダイムの連続により進化する。クーンは、パラダイムの重要な特徴として、根本的に異なる根拠からは、比較できないほど異なるパラダイムが生まれるため、1つのパラダイムから他のパラダイムへ単純に翻訳することはできないと主張した。 クーンは、異なるパラダイムを持つ科学者はコミュニケーションが取れないと書いている。これらの科学者は基本的にお互いを理解することができず、全く異なる世界に住んでいると。本質的には、このようにすべての分野は異なるパラダイムを持つものとして理解することができる。ではELSIの異なる分野の科学者たちは、どのようにしてこのような高度なレベルで比較的容易にコミュニケーションしているのだろうか?
比較できないほどの違いの原因の1つは、研究の基礎となるさまざまな利害と価値のシステムである。 ELSIの日本の国際機関を訪れているとき、規範と価値の違いを思わせる違いはどこにも感じられなかった。これは様々な形で明らかになった。私は東京で東京大学の科学史家であるTakuji Okamoto教授にお会いできたことを光栄に思っている。 Percy Bridgmanのオペレーション主義と米国での量子論の確立についての興味深い初期の研究を議論した他、彼は明治維新について語り、1877年に日本の最初の大学がどのように確立されたかについて語った。西洋の大学制度を模倣したものであるが、西洋とは異なる独自の特長がある。1つの明らかな違いは、農業科学を別に導入したことであった。急速な近代化の時代に農業科学の必要性に迫られてから、初めて独立した部門を作ったのは日本であった。
報国寺の竹林
しかし、利害と価値の違いはまた、形をとらず、目立たない場合がある。早稲田大学の哲学者であるToru Takahashi教授にもお会いできた。教授と会えたことは名誉であり、喜びである。また、一緒に飲むこともできた。教授の研究分野は「サイボーグ哲学」である。私たちの日常生活において技術が常に開発されていることを踏まえて、人間性とその価値を再考している。Takahashi教授は私に、鎌倉に来て、この街の美しい寺院や神社を見ようと誘ってくれた。私たちは報国寺の竹林の庭で日本の緑茶を飲みながら語った。教授は日本と技術との関係、具体的には「バーチャルリアリティ」との関係について語ってくれた。日本人は何世代も前からバーチャルリアリティという考え方を知っているという。Takahashi教授は壮大な美しい庭園を指して、これらの庭園は、日本人が時間を費やすことができる別の現実であると詳細に解釈できると説明してくれた。この寺は800年以上も経っているが、コスプレやビデオゲーム文化を考えると(地味なオランダ人の私には縁がないが)、日本人の仮想現実好きな傾向が見て取れる。
私は、根本的に異なる価値観と美徳を持つ国に滞在していることがまもなく分かった ― 文化的、倫理的、認識論的、その他さまざまな面において ―私が育ったものとは異なる。そういう意味(あるいは無意味)で、私自身の日本滞在は、キャロルの想像上の不思議の国を経験することに非常に似ていた。笑っている猫や狂ったお茶のパーティーにつきあう必要はなかったが、自分が知らなかった現象に直面した。混雑した地下鉄で気持ちよさそうに寝ている人、意図的に高音を出す女性、膨大な量の自動販売機、食べ物を注文するときの券売機、朝食の生卵、流水音を流すトイレのスピーカー...。したがって同様に、私の訪問は、比較できない事のぼやけた線を見つける実験のように感じた。信じられないほど異なる文化パラダイムで生き残るためにはどうすれば良いか?どうやったら理解できるのか?私が理解しなければいけないものは、こういった物質的なものだけではない。概念レベルでも、私自身のパラダイムがピシャリとやられた。私は、萌え、かわいい、オタクという、悪名高い、意味的に把握が難しい概念をまだ理解していない。さらに、私はパチンコや有名なAKB48ガールバンドのような、いくつかの興味深い「制度的」な違いにも出くわした。概念的にも、物理的にさえも、私は自分の身長の高さから彼らを見下ろすと、アリスの冒険の不可解な領域にいるように感じることがあった。
だからこそ私は、ELSI ― 非常に多くの異なる文化、人、学問の集合体 ― が両方をどのように結びつけているのだろうと不思議に思った。どのようにして、このような異なる分野および文化的背景を持つ人々が集まり、成果を出しているのか?決定論から確率論まで、メカニズムから進化論的目的論まで、どのように渡り歩いているのか?アメリカの実用主義から日本の礼儀にどうシフトしているのか?そんなふうに不思議に思っていた時、私はそれを直接経験する機会があった。コーヒーマシンで、ランチ会で、スタッフとの会話で、飲みながら、会議、コモンルームのテーブルで、評価会で。おそらくこういった活動がELSIの魔法の手掛かりだ。 ELSIは適切な場(正しくアプローチしなければ衝突する可能性のある概念、理論、価値観を戦わせる部屋)を提供することで、適切に学際的なゲームを行っている。このようにして、彼らは科学的なウサギの穴に飛び跳ねるための豊かな物理的および概念的な共通の根拠を提供する。それゆえ、お互いの分野に対する完璧な礼儀正しさと、新旧のアイデアや理想に対する正しい実用主義を持った研究所となっている。ELSIは概念的にも物理的にも共通の場を提供している、と同時に、私たちは何者なのか、そしてどこに住んでいるのかという起源を理解するための探求と疑問、それ自体がELSIの人々を結びつけている。 ELSIはそのような楽しい雰囲気の中で非常に多くの境界を横断している。まるで学際的なゴルディロックスゾーンの中にいるようだ。
同様に、私も日本の不思議の地を訪れて生き残ったようだ。ELSIの感動的な環境からヒントを得たアプローチにより、奇妙で馴染みのない、しかし魅力的で度肝を抜かれるような文化や風習を理解し、調整しようと試みた。このような活気のある知的・社会的環境を訪問することは本当に名誉なことだった。私は非常に多くの素晴らしい人々に会い、様々な面から学ぶ機会を得た!