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50 生命の起源の研究史について思うこと

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最大限の努力を払っているにもかかわらず、生命の起源について現在我々が信じていることのほとんどは、ほぼ確実に、古臭く時代遅れで、明白に間違いとされる日が来るだろう。ほとんどの科学コミュニティが過去に採用していた生命の起源に関するモデルは、他の科学分野から提起された発見により、その後に修正するという経緯をたどっている。例えば1960年代の生物学の「セントラルドグマ」の解明により「RNA界」モデルが作られ、1970年代後半の深海熱水生態系の発見の後、「熱水噴出孔」モデルが現れた。Alexander Oparinのコアセルベート、Sidney FoxのプロテイノイドミクロスフェアあるいはMiller-Ureyの放電実験についてはまた別の議論とするが、科学の世界では叩かれ、燃やされたアイデアが、時には灰から蘇るといった事実には胸が躍る。生態の構造と同様、新しい生命の起源モデルは継続的に作られ、実験され、棚上げされ、ボロボロにされるが、無傷であり、ある時は新しい意味づけにより力を増すことがある。このプロセスは生物学の理論と実践の両方で今後もしばらく続くだろう。

先週の日曜日、ロッククリーク公園で春先の散歩を楽しんで帰宅する途中、木の枝の先につぼみを見つけ、昨日まで雪が積もっていた地面からチューリップの芽が出ているのに気が付いた。特にどこに行く予定もなかったので、クリーブランド公園の中のコネチカットアヴェニューを通り、地元の公立図書館に寄った。

図書館の様々なサービスの中に古本販売というものがあり、在庫一掃商品を特価で提供している。人によって良いか悪いかの判断の分かれるところだが、誰も本棚にどんな本が並ぶかを知らないのだ。

ここはワシントンDCのため、政治評論や、まだ歴史とは言いにくいような最近の世界の出来事などの、雑多な本が置いてある。Bob WoodwardとThomas Friedmanの作品や、なぜ民主党や共和党が「すべて間違ったか」を論評した、本のように長いエッセイがある。さらに「オーストラリアの郷土料理」「チーズでクッキング」などの変わった料理本があり、「To Kill a Mockingbird(アラバマ物語)」や「Moby Dick(白鯨)」といったペーパーバックの古典コレクションがあり(たったの50セント!今どき50セントではガムも買えないのに、ここではアメリカの傑作が手に入る)、シェークスピアの劇が2冊、SFと青年向け文学が数冊。しかし本の山を辛抱強く探すと、めったにない作品に出会う。今日は文字通り閉館60秒前に、1冊発掘した。Freeman Dysonの1985年『Origins of Life(生命の起源)』だった。

私は1ドルを募金箱に入れ(ハードカバーでこの値段)、この小さい本をポケットに入れた。すると図書館員が私の後ろで玄関の鍵をかけた。

 私は『生命の起源』を1冊持っていて、家の居間のどれかの書棚の中に入っている。自分は15年くらい前に読んだが、私はELSIの同僚の誰かに読ませてあげようと思っていた。研究所で先進的な研究を行う者として、個人的にFreeman Dysonに会えたのを嬉しく思った。するとその本が新たな意味を持ち、自分にとって重要なものになった。この本で議論されている生命の起源のモデルは少なくとも29年前のものだ。このモデルは教育的な意味はあるかもしれない、誤解を招くかもしれない、しかし29年もの監視に耐えた後にしては、よく持ちこたえている。

道を歩きながら『生命の起源』をパラパラめくっていて、要約の章で、この素敵な一言に出会った。生命の起源について彼のモデルを提示した後、Dysonは彼のモデルに対していろいろ自問自答している。最後の1文はこうなっている。

「生命の起源の問題が最終的に解決したら、私の大事なモデルに何が起こるだろう?」

これが提起された最後の質問だが、これは簡単に解答できる。約200年前に私のお気に入りの詩人ウィリアム・ブレイクが『A Vision of the Last Judgement(最後の審判のヴィジョン)の初期手稿(1810年)』で答えている。

間違いは追放される

神がそうデザインした

私は神が存在するのか、もし存在しているならどうなるのか、ということをブレイクやDysonが考えていたのかはわからない、しかしいずれにせよ、この引用にある考え(すべてにおいて選択すること)は、真実のように思える。