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20 芸術と科学

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芸術と科学は、最終的に世に出てくる形はまったく異なる。芸術は科学のように結果を測定したり、検証したり、客観的に他の作品と比べたりすることはない。しかし初期段階のひらめき(新しいアイデアが浮かび上がる様子)は、芸術と科学は驚くほど似ている。

科学は通常、極めて合理的で知的な活動だと捉えられている。天才が最初に天啓を受けることを除いては、科学的研究には辛抱強く論理に従うというイメージがある。しかしそういったイメージは事実からほど遠い。独自研究を行う科学者にも感情的なハードルがある。期待から失望へ、ワクワク感から苛立ちへといった感情の波は、偉大な小説を書いたり、新しいスタイルの絵画を創造したりするのと同じように存在するのだ。

科学の最終結果が客観的な特徴を持っているからといって、本当の性質を判断する目を濁らせてはいけない。マラソン大会の勝者がストップウォッチを使っているとしても、それはスポーツとはタイムキーピングだという意味ではない。逆にタイムキーピングは後から考えられたもので、勝者を決める技術にほかならない。同じように合理的客観的な判断というのは、科学的勝者を決めるための後から用いられる技術なのだ。歴史が物語る通り、誰が本当の勝者かがわかるのには時間がかかることもある。ある理論が何十年間も日の目を見ず、新しい議論が起こるまでその本当の価値が認識されない場合もあり得る。

科学の性質に関する誤解が蔓延することで、少なくとも2つの犠牲を出している。1つめの犠牲は科学が助成金や昇進という形で規制を受けていることだ。科学の成果は、論文や引用の数、h指数(論文の引用頻度を示す指数)、その他の統計的なトリックによって測定され、本当のブレイクスルーを成し遂げる可能性のある真に創造的で型破りな科学者を排除する危険がある。もうひとつの犠牲は高校生にとっての科学のイメージ付けである。科学的発見に遭遇するワクワク感は、教室で再現するのは難しいため、高校生は科学をつまらなくてかっこ悪く、感情や創造力を働かせる場面はないと考えている。

感情と合理性、創造力と客観性を融合した、科学的研究の本当の色はどうやって見せることができるだろうか?ひとつの大きな問題は、多くの科学者が科学は芸術とは違い、科学のほうがずっと合理的だという迷信を信じているということだ。どうしたら、そういう考え方に限界があることを見せられるだろうか?

ひとつの方法は境界を越える事である。科学は純粋に合理的な活動だといくら装っても、ある国から別の国に行けば、生活でも、科学でも非合理的な要素というものが国によって異なることに気付くだろう。同様に科学者がひとつの分野から別の分野に移るか、他の分野の科学者と真面目に協働しようとした場合、自分自身の出身分野と比較して、非合理的だと思われる様々な規準に直面する。

国際的・学際的な研究を重要視しているELSIは、こういった境界線を越えた活動を提供する理想的な研究所である。だからこそWPI(世界トップレベル研究拠点)としてELSIの2つの主な特徴に注目することが重要なのだ。ELSIのレンズを通してみれば、芸術が科学の中心部にどのように存在するかを発見することができるかもしれない。

 最後にYu Kanetaの絵画を紹介したい。数年前彼女が京都で芸術の勉強をしているときに出会った。そのとき、一緒に芸術、科学、社会について話しをした。彼女は芸術が社会で、特に医療の現場で役割を果たせないかという試みをしている。そのため、今は東京の看護学校に通っている。ここに紹介した絵画は、彼女が私の1年前の誕生日に描いてくれたもので、ELSIの私の机の裏に飾っている。

そのころWPIに向けて提案を書いていたPI達にとってみると、ELSIはまだ小さい存在だった。Yuも私も、私が生命の起源に関係する新しい研究に誘われるとは考えてもいなかった。彼女が宇宙にただよう地球の絵を描こうと思ったのはまったくの嬉しい偶然なのだ。この絵は抽象的なシンボルであるドアと窓を使って世界を描いている。原始地球は生命の起源についての扉を開け、抽象的な考えができる人間を創造してくれた存在である-という考え方を私は気に入っている。生命はこの世界に窓を提供してくれた。人間の意識は芸術と科学の両方を発展させた。